
東京港区にある聖アンデレ教会。大正9年、この場所で子どもたちに英語が教えられていた。
今や全国に星の数ほどに増えた「子ども英語教室」ですが、今から約100年前の大正9年(1920年)に一人の女性によって設立された子どもを対象にする「英語教室」がありました。上の写真はその場所となった聖アンデレ教会(東京港区)です。
調査は1年前から
私の「民間ではいつから子どもに英語を教えるようになったのか?」という興味から調査が始まりました。令和2年から始まる小学校英語の教科化で子どもへの英語教育は注目の的ですが、現在の日本には「民間の英語教室」が全国どこにでもあります。しかし、それらは戦後(1945年:第二次世界大戦後)にスタートした教室ばかりです。調べ始めて一年経ち、いろいろなことがわかってきました。この記事では場所と時代について記述します。
戦後に一気に広がった
子どもの英語教室は昭和35年(1960年)ごろから一気に広がりを見せます。特に昭和39年(1964年)~40年(1965年)にかけては東京オリンピック開催もあって「国際化」が叫ばれ、実際に多くの外国人が日本にやってきました。同時に早期英語教育が注目されるようになり、子ども時代に英語に慣れ親しませて、来るべく国際化の将来に向けてしっかりと英語力を身に付けさせたいという親のニーズも出てきました。子どもへの英語教育サービス業が生まれた背景には社会の変容も大きな理由だったようです。当時は高度経済成長期の真っただ中でしたから、景気も良く、それぞれの家庭には学外教育にもお金をかけられる余裕もあった時代でした。
話を元に戻しましょう。冒頭に紹介した「一人の女性」についてです。彼女は中村キルビー・メリ先生。メリ先生は明治37年(1904年)に慶応義塾幼稚舎の英語教師に着任し、大正7年(1918年)まで教壇に立っておられました。その後、周囲の後押しもあって大正9年に港区の聖アンデレ教会内に学外の英語教室「コドモ英語会」を設立します。当時の様子を思い出すように教え子さんたちが書いた文章の中に麻布飯倉の交差点が出てきます。
以下の写真が東京港区の現在の飯倉交差点の様子です。東京タワーの方面に「コドモ英語会」がありました。教え子さんが書かれている「市電」は当時は東京市であったため、都電になる前は「市電」と呼ばれていた時代でした。

麻布飯倉の交差点。ちょうど坂道の頂上。東京タワーの方面に聖アンドレ教会がある。

飯倉の交差点から東京タワー方面の道路を撮影。中央の樹木のある付近に聖アンデレ教会がある。この教会内に大正9年「コドモ英語会」があった。
港区は坂が多い
歩いてみてわかったのですが、東京の港区は坂道がとても多いです。子どもたちが歩いて学校へ行っていたと思うと、結構大変だったのではないでしょうか。車もそんなにない時代ですから、明治~大正時代は市電が市民の足になっていたのでしょう。実際に現地に行ってみると、小学校が終わってから市電(天現寺~飯倉)に乗って、学外の英語教室に通っていた子どもたちの姿が目に見えるようで、子どもたちがどういう気持ちで英語を習いに通っていたのかと考えると、私も何となく気持ちが高ぶりました。調べれば調べるほど興味が沸いてきます。次の記事はメリ先生が実際に教えていた内容について記述します。
参考文献
田中照子編(昭和60年12月24日発行:非売品)「キルビー・メリ先生 日本の英語教育の先覚者」東京:キルビー学院
キルビー学院・・・新宿にあるキルビー・メリ先生が設立したスクール。現在も当時の「コドモ英語会」の流れをもつ子どもの英会話教室がある。